11月に入りすっかり秋めいてきましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
今回は、『学問の神様』でおなじみの菅原道真をお祀りした「北野天満宮」です。
前回の記事はこちらからどうぞ: tsh.hatenablog.jp
※筆者注 2021-11-12 冒頭部分を加筆修正
書かれていない状態で記事をアップしてしまいました m( _ _ )m
北野天満宮
創建は、平安神宮中期の天暦元年(947)。菅原道真を祀ったのが始まりとされています。
永延元年(987)、初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られ、国家の平安が祈念されました。
江戸時代になると寺子屋が普及し、天神さまが祀られたことから、「学問の神様」「芸能の神様」として広く知られるようになります。
菅原道真
学問の神様といえば『菅原道真(すがわらのみちざね)』。
平安時代の学者で、その才覚から、政治家としても活躍、宇多天皇の後ろ盾もあって近臣として出世します。
そしてついに、899年(宇多天皇は897年に醍醐天皇へ譲位しており、太上天皇*1となっています)、右大臣まで上り詰めたことでも有名です。
が、学者が政治家として出世するのを、当時の貴族たち(藤原氏らを始めとする反道真派)が妬んだため、左大臣藤原時平らの讒言*2等もあって、901年太宰府に左遷されてしまます。
その時、平安京を離れる際に詠んだ句が、
『東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ』
という、あまりにも有名な句ですね。
そして、京の都を離れた2年後の903年、その太宰府の地にて生涯を閉じてしまいます。
道真が亡くなった後、藤原時平が39歳で急死、また、時平の妹、穏子(おんし)は入内していて、醍醐天皇の第二皇子、保明(やすあきら)親王が産まれたにも関わらず夭折したり、御所に落雷、時平派の貴族が相次いで亡くなる、挙句の果てに醍醐天皇も崩御するなど、道真の祟りと噂されます。
この道真の祟りを鎮めるため、神殿を建ておまつりしたのが、現在の北野天満宮になっています。
見学
一の鳥居
まずは、こちらから入ってみます。
楼門
この写真では分かりにくいのですが、左右に左大臣と右大臣が祭られています。
三光門
横たわった牛
北野天満宮にはこのような牛の像が多数存在します。この横たわっている牛を「臥牛(がぎゅう)」と呼ぶようです。
いくつかの疑問
と、ここまで書いておきながらですが、少し疑問が生まれました。
- なぜ、「学問の神様」なのか?
- なぜ、菅原道真は左遷されたのか?
このことについて、少し調べてみました。
なぜ、「学問の神様」なのか?
まず初めの疑問です。
創建当初は「たたり」から始まった神様でしたが、時代が下ると次第に「神様」部分がクローズアップされていく。元々優秀な人物であったのは間違いなさそうですから、あやかりたい気持ちが出てくる、というのは、そうなのであろうと思われます。
「左遷された」という事実も悲劇のヒーローっぽいですし、興味を惹かれるところでしょう。
こちらは、なんとなくではありますが理解できます。
なぜ、左遷されなくてはいけなかったのか?
色々と調べました😓。
諸説あるようですが、不詳筆者が理解した範囲内での結論を書いてしまうと、
「道真は皇位継承問題に関係してしまったから」
というのが真相に近いようです。
897年、宇多天皇は皇太子である敦仁親王(後の醍醐天皇)に譲位します。この時、敦仁親王は13歳で元服と同時に即位しているため、その時点で醍醐天皇の子どもはいませんでした。
当時、天皇の重大な任務の一つが、次の皇太子について決断することです。現代と違い、明確な皇位継承順位が決まっていたわけでなく、血の繋がった世襲であればよかったのです。
宇多天皇が即位したときの時代まで、一旦遡ります。
光孝天皇の第七皇子である定省親王(後の宇多天皇)は、884年、源姓をもらって臣籍降下していたにも関わらず、887年、皇族に復帰し、光孝天皇の次の天皇として即位することになります。
原則として、一旦臣籍降下してしまうと皇族に戻れないのですが、それまでのルールを曲げ、皇族に復帰できたのは、藤原基経の力によるものです。基経は、初めての関白に就任した人物で、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたって朝廷の実権を握っていて、しかも皇位継承にも深く関わるほどの絶大な権力を握っていました。
そういった経緯であったため、宇多天皇は即位当初、やや権威に欠けていたと言われています。
宇多天皇即位後、すぐに藤原基経が力を見せつけたのが、阿衡(あこう)事件です(『阿衡の紛議』とも言われます。) 藤原基経に関白就任を要請した際、藤原基経はその詔に難癖をつけ、引きこもり作戦に出てしまいました。その結果、即位直後、しかも、あまり権威のない宇多天皇ではどうすることもできず、政務が滞り混乱を招いてしまいました。
その事件の際、困り果てた宇多天皇と藤原基経の間に入ったのが菅原道真です。絶大な権力者である基経の行動を誰も咎めることができなかったのですが、道真はその基経に忠告し、事態の収拾に一役買ったのでした。
この事件で宇多天皇は随分と懲りたようで、権力を藤原氏に渡してはいけない、といった『反藤原派』の考えを持つようになり、また間を取り持った菅原道真をより信頼するようになったと言われています。
891年、絶大な権力を誇った、その藤原基経が没します。長男の藤原時平はまだ若く、父・基経ほどの力を持っておらず、ようやく宇多天皇は、自らの政策を思いのままに実行できるようになります。
この宇多天皇の天皇親政時代は『寛平(かんぴょう)の治』と呼ばれ、藤原時平や菅原道真らと共に、摂政関白を置かない、藤原氏の勢力を抑えた天皇を中心とした治世(天皇親政)が行われています。ちなみに、道真が廃止したとされる、有名な『894年遣唐使廃止』もこの時代に行われています。
藤原氏の権力にコリゴリの宇多天皇は道真を重用したようで、896年には道真の娘、衍子を自身の后(女御)にしたり、897年には、道真の娘、寧子を自身の子・斉世親王(ときよしんのう)の后にしたりしています。このことは、道真が、もともとの身分が低い出身なのにも関わらず、かなりの厚遇扱いであったことから、他の貴族たちから嫉妬される遠因にもなりました。
天皇親政を行っていた宇多天皇ですが、897年頃には、左大臣・藤原良世は引退、寛平の治を推し進めた右大臣・源能有は病で亡くなり、空位になっていました。したがって、次に高い官位「大納言」が藤原時平であり、実質的に最高位となっていました。この事は、時平をはじめとする藤原派の影響力が増大する要因にもなっており、宇多天皇は頭を悩ましていたようです。(譲位のきっかけの遠因にもなっています。)
897年の時代に戻ります。
宇多天皇は幼少の敦仁(あつひと)親王(後の醍醐天皇)に譲位します。
当時の様子は『寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)』という、宇多天皇から皇太子・敦仁親王への書置きに記されています。
その内容ですが、日常の所作や公事儀式のことから、廷臣の人物評にまで及んでいます。藤原時平・菅原道真・平季長・紀長谷雄の4人を登用するように書かれていて、さらに時平のことを「若いが政理に通じている。顧問にして輔導に従うべきである」と高く評価、道真については「鴻儒(こうじゅ)である。また、深く政事を知る。新君の功臣ではないだろうか。道真の功績を忘れてはならない」といった高評価を始め、敦仁親王の立太子や譲位についても道真だけに相談した、などと記されています。
また、右大臣・源能有についても触れられており「亡くなったことが衝撃を受けた」と記されています。
このように宇多天皇からの評価が高い道真でしたが、宮中の序列を無視した彼の登用は、他の貴族から嫉妬された原因にもなったことは言うまでもありません。
宇多天皇の譲位にはいくつかの狙いがあったようです。
藤原氏の影響力が少ない(皇位継承問題にあれこれ口を挟まれない)うちに実子の醍醐天皇に譲位した
これは、自身の即位のときに藤原基経が力を発揮した経験からのようです藤原氏が外戚になることを防ぐ
醍醐天皇にはまだ自らの子がいませんでした。そこで宇多太上天皇は、自身の妹・為子内親王を醍醐天皇の后にし、藤原氏が外戚になることを防ごうとしました。(が、内親王を生むと同時に亡くなってしまいます)藤原氏だけに権力が集まらないようにした
道真の後ろ盾になるとと同時に、譲位後も道真を通じて影響力を保とうとしました。具体的な事例を一つ挙げると、譲位直前に、菅原道真を時平の次席とし、両名に内覧を命じ、二人で醍醐天皇を支えるように命じた、といった事などです。(が、この人事は公家たちには不評で、ボイコット事件を引き起こしてしまいます)寛平の治の側近をそのまま配置、天皇親政の政策を主導しようとした
こういった狙いは、時平派などからの反感を買うことになりました。
899年2月、藤原時平は左大臣に、菅原道真は右大臣になります。
899年10月、宇多太上天皇(上皇)は仁和寺で出家し、初の法皇となります。宇多朝時代の近臣は、ほぼそのまま醍醐新帝の周囲に残されたままということもあり、依然として強い影響力を持ち続けていました。またそうあることで、身分の低い出身である道真の後ろ盾ともなっていたのです。が、出家したことで、道真の後ろ盾としての影響力が薄れてしまった事になります。
901年1月、讒言により右大臣・菅原道真が左遷されます。(昌泰(しょうたい)の変と呼ばれています。)
「宇多上皇が斉世親王を皇太弟に立てようとしている」という噂がまことしやかに流れます。これは宇多上皇の力で醍醐天皇が譲位させられるかも?ということを示唆しています。
そこに、藤原時平の讒言です。「道真が娘を嫁がせていた斉世親王を皇位に就けようと企んでいる」 醍醐天皇がこれを聞き入れ、菅原道真が大宰府に左遷させられることとなります。
宇多法皇や道真の手法に不満を抱いていた、醍醐天皇、藤原時平らが政治の主導権を奪還した、といわれています。
事実、同年時期は不明ですが、時平の妹・穏子が醍醐天皇の后になりました。宇多上皇が「時平が外戚の地位を狙うもの」として反対したものの、それを押し切って入内しています。
このように、醍醐天皇の皇太子の問題が常に付きまわっていました。
現実問題として、斉世親王が皇太子となる可能性が十分にありました。道真も将来的に天皇の外戚となる(斉世親王の子が生まれた場合、外祖父となる)ことについて直接的な否定はしなかった、といわれています。宇多上皇は、そうなることを望んでいた節もあるようです。
一方、藤原時平は外戚となる機会を伺っていました。穏子の入内はある意味既定路線であったと言われています。
肝心の醍醐天皇ですが、
- 宇多上皇より皇太子の指名を急かされていた
- 異母兄弟より、自分の子を後継に選ぶ選択をした
- 醍醐天皇からすると、道真は宇多上皇の力を背景に色々と権力を行使する、宇多朝の藤原基経のような立場だと思われた可能性
ということで、醍醐天皇と時平の狙いが一致したようです。
「なぜ、左遷されなくてはいけなかったのか?」というテーマで調べてみましたが、「道真が(それほど積極的には意図していなかったとはいえ)皇位継承に関する権力争いに巻き込まれてしまい、結果として敗れてしまったから」ということになるかと思います。
『皇位継承』と言葉にするのは簡単ですが、一代一代様々な立場での事情や意図、思惑、考えなどがあり、「次の代に引き継ぐ」といったことが、実際にはいかに大変な事なのかがよく分かります。
宇多天皇が第59代天皇、醍醐天皇が60代天皇、現在が126代天皇ですので、少し考えるだけでも気が遠くなりそうです。
まとめ
この記事をご覧の皆さまの中にも、受験生の皆さんや、受験生のお子様がいらっしゃるご両親もいらっしゃると思います。 緊急事態宣言が解除され、ひとまず落ち着きを取り戻しつつある中、現地を訪れて参拝してみようか、とお考えの皆さまもいらっしゃることでしょう。
少し脱線すると、お祀りされているのが『学問の神様』とはいえ「参拝すれば自分の成績が劇的に上がる」という効果は、あまり期待できないと思われます。
そもそも参拝するだけで成績が抜群に上がるのであれば、「勉強を一切せず、その代わり毎日参拝し続けるのが最も合理的な行動パターンの一つ」って事になってしまいます。
もし仮にそうだとすると「できるだけ参拝するために費やす時間を短く」かつ「高頻度に参拝すること」が受験生の合理的な行動ということになり、「なるべく天満宮の近くに引っ越す」だとか「開門時刻から閉門時刻まで天満宮に入り浸り、参拝が終わったらすぐに列の最後尾に並び直す」などといった行動を取る必要がでてきます(爆)。
さすがにそんなことはあり得ないですよね?!
ということで、成績に関する部分については、本人の努力次第ということでお願いします。
受験生の皆さんであれば、「やるべき勉強は全てやった。もう勉強に関する部分は、やり残したことは無い。なので、あとは神頼みでライバルに差をつける」だとか、「合格に対するイメージを高めることで、意志の力を味方につける」等といったこと。
本人以外の方、特にご両親であれば「目の前に本人が居るとつい(悪いとは分かっていても)口を出してしまう。なので、参拝することで不安な気持ちを落ち着かせる」等といったことで効果があるでしょう。
何か突発的な不可抗力(風邪をひいてしまった等)が、参拝することによって、もし避けられるのであれば、それはそれでありがたい事なのだと思います。
が、それは「ご利益かどうかも判断つかない」といった事になってしまいますので(「なかった」ことについて証明するのは難しい、「悪魔の証明」と言われるようです)、そこは厳密に追求したりせず「お参りしたので風邪を引かなかったし、普段どおりの実力を発揮できた、ラッキー♫」程度で気楽に構えているのが良さそうに思います。
この記事をお読みなられた皆さまが少しでも幸せになられることをお祈りして、この記事を閉じたいと思います。
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前回の記事: tsh.hatenablog.jp